あふれる優しさを、そのままに受け止められないことがとても辛い。
歪む鏡
いつものように目覚ましが鳴る前に目が覚めて、今や見慣れた天井を確認する。
ここは、故郷ではなく。
ひとつの季節と少しの間、笑い合って、そして戦った町でもない。
「ああ、今日は俺が作らないと」
ひやりとした朝の空気に少しだけ縮こまりながら、用意した着替えを身につける。
窓を開けると、うっすらと白く覆われた地面。
歩いたら、足跡は土色に踏み抜いたように見えるだろう。
「正月に雪って言うのも新鮮だな」
何もかも引きずったままの俺に、いっそ目隠しでもしてしまえっていう啓示かもしれない。
振り返った机には、形ばかりの大掃除と言うことで、普段積んである雑誌の類は無い。
ただ、少しずつ中身を増やしていくファイルが、そんなことできやしないんだと告げていた。
階段を下りて厨房に立つ。佐山さんに、食事の用意をすると告げた。
普段ここにいる簑島さんも、お手伝いの白瀬さんも、心配そうな顔をしながら正月だからと実家に返された。
執事である佐山さんは、差配は出来ても料理はされないし。
料理が得意なのだと、来てしばらくして話した。
暇だから、とやがて簑島さんの手伝いをするようになった。
少しずつ、この家の味付けも覚えてきたと思う。
そして、一月ほど前。
「和真さんが料理してくれるから、たまには家族水入らずでお過ごしなさいな」
穏やかに、家族が離れているふたりに、淑江さんはそう告げた。
俺に任せるのは心配だったのかも知れないけれど、それでも家族に会えるのは嬉しかったのか承諾して。
俺には、たくさんの指示が書かれたメモが残された。
その中から、今日の朝の食事についてびっしりと書かれたメモを取りだして目を通す。
お雑煮の作り方のそれは、当然俺には馴染みのないもの。
水に焼き干しを入れ、煮立ってから掬い上げて灰汁を取る。
昨晩から水につけて戻しておいた乾物の芋の茎と焼き豆腐を入れる。
焼いた丸餅を入れて、少しだけ煮立てて、3つの椀に装った。
それと、昨日作り置かれた煮物数種をあたためて盛り合わせる。
最後に岩海苔をぱらりと浮かべて、キッチンに佐山さんの分を残し、二つを食卓に運んだ。
「おはよう、和真さん」
すでに淑江さんは食卓について俺を待っていて、俺はその向かいの席に着いた。
「「いただきます」」
図らずも声があって、顔を上げてしまう。
目が合うと、向かい側から微笑みが返されて、意味もなく俺は会釈した。
そのまま、淑江さんは静かに雑煮に口を付けるのを見守る。
事細かに書かれた調味料の配分は、間違えなかったつもりだけど。
味見した限り、失敗はなかったけれど、俺はここの味を実際知らない。
味が違うと、そう感じさせたら申し訳ないから。固唾を呑む、というが正しい有様で見守った。
「あら、そんなに見つめられてしまっては食べづらいですよ?」
「あ、すみません、そんなつもりじゃ」
「わかっていますよ、和真さん。…新年から、美味しいお雑煮を作ってくださってありがとう」
その言葉に、安堵のため息を吐いて、自分もやっと口を付けた。
余りに簡素なような気がしたそれは、あっさりとしていて美味しかった。
食後、緑茶を佐山さんに出して貰いながら、他愛もない会話をする。
「そう言えば和真さん、丸餅は今まで口にされたことはおありなの?」
「…そういえば、無いです」
角餅は東、丸餅は西の食べ物だと知識として知っている。
旅行で、該当地域に行ったことはあるけれど、餅は自宅で口にするものだし。
雑煮と言えば尚更、自宅と、正月時に遊びに行った友人の家で食べたくらいだ。
そういえば、ここも角餅の範囲なのではないだろうか。
俺の疑問は顔に出ていたのかな。
「嫁いでからずっと、角餅の、主人のお家のお雑煮を食べていたのだけれど、先立たれてしまってから寂しくて。次の年から、生家のお雑煮の作り方に戻してしまったの」
穏やかな微笑みも、口調も崩れないままで。
それでも、それとなく寂しそうに見えたのは聞き手の主観だろうか。
「もう実家はないから、お餅は扱っているところを探して買っているの。昔は、そうね、娘時代は下働きの皆が、お正月になると集まって搗き立てのお餅を千切って丸めていって」
「ああ、切り餅じゃないからですね」
当たり前の合いの手に、良く出来ました、と幼い孫を褒めるような優しい表情を向けられる。
「そうなのよ。粉を付けて、まだ粘るお餅が手に付かないようにして丸めていくのだけれど、皆熱くもない様子で、同じ大きさに手早く丸めていくのが魔法みたいに見えた。一度、してみたくて強請ってしてみたけれど。粉の手触りに慣れなくて、お餅が熱くて、そして私は不器用で、不格好なひびだらけのお餅しかできなかった」
まるでおとぎばなしを語るように、幸福そうに大事そうに言葉を紡ぐ。
「俺には、できるでしょうか」
「そうね、和真さんならすぐにできるようになるわ。私と違って、なんでも出来るんですもの」
ころころと笑い、くすぐったいほどに、まっすぐに褒められる。
真綿にくるまれるように、誰も俺を責めない、傷つけようとしない日々は却って。
忘れてはいない棘を膿に包んで、深くに押しやっていくような感覚に襲われる。
ぐっと、眉根を寄せたから不審に思わせたのか。
心配げな視線に、大丈夫だと首を振る。
話を変えたくて、意味のない問いを。
「嫁がれてからずっと、ご主人の家のお雑煮だったんですか?」
あんまり自分の人生で、たくさんの種類の雑煮を口にすることなんて無いのかもしれない。
お節は贅沢なものを料理屋で作ることはあっても、雑煮はあくまでプライベートな感じだし。
「…そうね、いいえ、お正月に旅行して、旅館でそちらのお雑煮を食べたのよ。白味噌に煮た丸餅、里芋に大根だったかしら。甘くてびっくりしたわ」
…想像が付かない。
いや、修学旅行の宿泊先で、白味噌の椀もの自体は食べたことがあるんだけど、結びつかない。
「私も驚いて、仲居さんに尋ねたのよ。白味噌仕立ては、隣の大阪や兵庫もですって。それでもお澄まし仕立てや赤味噌仕立ての地域もあるっていうお話だったから、本当に色々なのでしょうね」
このひとは本当に、ささやかな幸福に繋がる知恵や知識を蓄えていて、耳を傾けていて心地良い。
俺を聞き上手だとも褒めるけれど、聞かせ上手なのであって、俺が上手なわけではないだろう。
耳あたりの良い言葉、そのなかに含まれた地名が、奥深くに潜る棘を疼かせる。
『恭ちゃん、みやげ』
『俺は、醤油をひと瓶みやげに持ってくる男なんて聞いたこともないが』
『めでたいなあ、恭ちゃん初体験やんか』
『そんなのいらない…で、意図は』
『うどん作って』
『…ああ、そうか。関西の人間には口に合わないか。でも、お前こっち長いんだろ?』
『長いけどな、生きてく為に食うんと好き嫌いは別やし、大体オレこっちのうどんなんてよう食わん』
『ご隠居の家は?』
『むっちゃ関東風やねん。居候やし、そこらへんの注文つけられんわ』
『…俺は?』
『ダチやろ?それに、恭ちゃんあんま味濃いの好きや無いやん』
『まあ、そうだけど、関東風の醤油で育ったに違いはないんだけどなあ』
『やっぱり作んのイヤか?』
『まあいいよ。ちょうど醤油切れそうだったし』
『おう、一本まるまるやるから、たまにオレに食わして』
あの薄口醤油は、使い切れないまま台所に残ってる。
家を離れて長いはずだよな、お前。
きちんとした家で、雑煮なんて食べるの今年が久々になるのかな。
作れもしないくせに、味には色々言うんだから、雑煮食べてやっぱりなんか違うとか思ってさ。
…もしも俺がまだあそこにいたなら、白味噌持ってうちに来たのかな。
何もかもに愚かなほどに未練がましく、自嘲する。
それは一瞬。
でも、向かい合った人間には、一瞬でも物思いに沈んだことは気付かれる。
「和真さんなら、きっと綺麗な形のお餅に、丸めてくれるんでしょうね」
掛けられた言葉は、詮索とは何も関わりない言葉。
「丸いお餅はね、鏡を模したとか、神様を宿したとか言うの。あなたはきっと、心を込めて丁寧に丸めてくれるでしょうから、きっと優しいお餅が出来るでしょうね」
俺の丸めた餅が鏡となるなら、それは初めからひび割れだらけの歪なものになりそうだ。
口に出しても心配させるだけだし、目を伏せて曖昧に笑んだ。
「辛いことに、ずっと苦しんでいるのは優しくて賢いから。…あなたの丸めたお餅が食べたいから、来年は餅つき機なんて物を買ってみましょうか。搗き立てのお餅をわけて貰うのも、美味しかったのよ」
来年まで、ここにいていいのだと。
優しすぎてどうしたら良いのか分からなくなる。
間違いなくここに、俺の幸福を気に掛けてくれる人がいるのだと、遠くにいて俺を案じている人たちに伝えたい。
俺は、あなた達を、お前をおいて薄情にも優しい人と暮らしていると、だから忘れてくれと。
来年まで、ここにいるか分からない。
いられるか、分からないけれど。
名前も、素性も、約束も嘘になった。
「餅を丸めるのは初めてだから、うまく出来ないかもしれないですよ」
「それでも、楽しみだわ」
ここに住む人も、そして、彼らも。
俺の丸めたひびだらけでいびつなそれを、綺麗な形だと微笑んで口にしてくれるのだろうけれど。
fin.
お題。
「隠れ鬼」の、「和真」くんとおばあさんの日常小話。
日常?ですが。
つうか、新春なのに…恭ちゃん。
あけましておめでとうございました。
こんなんですが、ことしもよろしゅう…。