想像力が、欠落していたのか。
それとも何かの感情が、想像力を制限していたのか。
今は、まだ。
リミッター
ジンライムの氷が崩れて、からんと音が鳴る。
俺がゆっくり飲んでいる間に、哲平はもう次飲んでるけど、ふたりだけで、ここで飲むのなら心地よくペースを保てる。
話すときは本当によく話すけど、案外、ふたりきりで酒飲んでるときは静かだったりする。
その音に促されるように、すこし、うれしかったことを思い出す。
「そういえばさ、俺、前住んでた町に行ってくるよ」
アルコールが回って、少しだけ滑りの良くなった舌が紡ぐ。
「…ん、いつなん?」
ちら、と俺の顔を見ながら、マティーニを口元に運んでいる。
「バイトの後輩だったのが結婚することになってさ。日取りはまだ未確定だけど、そのときにでも」
「そぉか。まあ、久しぶりやろ。ゆっくり、楽しんできたらええんとちゃう?」
哲平の目が笑った。
墓参りも行けなかった、そう言ってたのを思い出したんだろう。
「花嫁も花婿も、両方知り合いなんだけど。…結婚してからも喧嘩して、うちに押し掛けようとしないよう言い聞かせないとな」
俺はメールでしか状況を知り得なかったけど、結構な大騒動だったらしい。
張本人は相変わらず那須を振り回しているらしいし、那須だって別に、振り回されること自体は苦じゃないみたいだ。
似合いのふたりだよな、そう思って自然に笑みが浮かぶ。
「しかし、その話聞いたときは、ほんまはその娘、恭ちゃんに惚れとったんちゃうんか思ってんけど」
からかうように、言葉が掛かる。割とこいつ、そういうこと言うよなあ。
「懐かれてたとは思うけど、きっとそういうのとは違うよ」
手の掛かる妹とか、猫とか、なんだかそんな感覚だった。…ああ、破壊力の低い奈々子でもいいかもしれない。
「…恭ちゃんの恋愛絡みの自覚は当てにならんからなあ」
笑い含みの声に、少しだけ反論したくなる。まあ、ずっと周囲から鈍いとは言われ続けてきたけれど。
たしかに、恋愛沙汰には向いてないのかな、と思ったこともあるけどさ。
「…気ぃ悪うさせたんならすまん、謝る」
結局適当な言葉を見付けられなくて、俺は黙ってしまって。それを気にしたのか、哲平は飲みかけのマティーニをコースターに置く。
思いの外真面目な顔でこっち見るから、打ち消すように、今度はこちらが笑ってみせる。
飲み終えたジンライムのグラスが、三分の一ほどくらい溶けた氷水になっていた。
もう一杯二杯なら大丈夫だな、と自分の許容量を確認した。持ち上げて、マスターを呼ぼうとするとちょうど目が合う。
声を掛けるよりも先に、穏やかに微笑まれて、俺の持つグラスを受け取って奥に入っていった。
少しだけ、返す言葉に困る空気は、おかげで消えた。
哲平に、話してみようかと思った。
もう明らかに過去のことなんだけど、それだから。
あの街の友人達は、苦笑して発破かけたり、もったいないから追いかけろとかそんな感じだったけど。
哲平は、どう言うんだろうな、ってそう思った。
「どれだけさ、特別に好きだと思っても。それが、伝わらなかったら。……それは、なかったことになるのかな」
ぽつり、と落ちた言葉は、多分すぐ隣にしか聞こえなかった筈なんだけど、妙に、頭の中に響いて聞こえた。
哲平の肩が、一瞬揺れた。
一息つくくらいの沈黙のあと、返ってきた言葉は静かだった。
「ならへんよ」
「そうかな?」
「そや。…まして、恭ちゃん伝えとらんかったわけ違うやろ?」
言わなきゃいけないときには、伝えてたはずだ。
ただ、特別だと信じられなかったと、そう言われた。
そう言われてふられたってこと、俺の周囲は俺が悪いんじゃないと前置いた上で、納得してた。
「…説明されんでも、なんか大体の経過は分かったような気がするわ。んでも、な」
マティーニに口付けて、ほんの少しの残りを飲み干して一言。
「想像はつくけどな、…付くけどな、腹立つわ」
ぐっと眉寄せて、目つきも険しい。体感温度が下がったような気さえする。
「ありがと、怒ってくれて。でもさ、こういうのは、結局連帯責任だろう?…そのあと、伝えたいことを信じてもらう手段を打てなかった、それは俺が悪い」
すぐに追いかければ良かったんだよ、とあとから言われた。もう、思い出すだに恥ずかしい演出じみたことでもさ、それが欲しいみたいならそれを上げるのもいいんじゃないか、とも。
それを思わなかった訳じゃないけど、どこで食い違ったのかがそのときの自分には分かってなくて。
それを確かめるのが怖かったのかもしれない。探偵としてなら、どれだけでも追うことができるのに。
「まあ、な。オレも、もしそれが恭ちゃんやないダチとか舎弟やったら、適当にフォローして繋いどけ言うんやろうけどな。…それが、今の話やったら。したら、オレ絶対んなこと言えへん」
哲平、面倒見良さそうだから、そういう相談事とかもあったよな。
それでも思い出してるんだろう。
「うん、やっぱり恭ちゃんには言えへん。恭ちゃんから、そういうんでリアルタイムでどうしよう、とか言われたら、別れてまえしか言えんな」
「…なんで?」
「何でて、一度でもこの恭ちゃんに特別やって言われてんのに。それで納得せんで、気持ちくみとらんで試すようなマネして。贅沢すぎてバチでもあたっとけ、とか思うな」
この、ってなんでわざわざ俺の名前の前に付けるんだろうと思うけど。
「いいんだよ、多分、当然だったのかもしれないと今は思うし」
「………、ま、恭ちゃんがそう言うんならええ」
諦めたように、哲平がマスターにおかわり注文してる。
ついでのように、俺の言葉から読みとっただろう例を挙げて、マスターに意見とか求めてて。
「――――。…んで、女の子がはっきりせい、みたいな感じでこの店から出てったら、マスターなんて言う?」
ちらりとマスターが俺を見た。俺が、スミマセン、って感じに頭を下げる。マスターも、こちらこそ、って感じに頭下げてから。
「…また、ふたりで仲良くこの店にいらして欲しいですからね。追いかけるように促すかもしれません」
「そうやろなあ、…いや、おおきに」
マスターらしい答えだなあ。
哲平にも、それは異論はないようだった。
そのまま、マスターは他のお客さんから呼ばれて、一礼して立ち去っていく。
「やっぱオレ、心狭いな」
天を仰いで嘆息する様子が、ちょっと落ち込んでいるようで。首を振って打ち消した。
「そんなことないよ。そう言ってもらえて、なんか嬉しかったし。もう、整理できてることだって、話してみて分かった。話聞いてくれてありがとな」
真っ直ぐ顔見てそういうと、哲平は打ち消すように手を振って、苦笑してから前を向く。
「さあ、妬いただけかもしれへんで?」
笑ったまま、カウンターの向こうに目をやってる。マスターが、哲平の注文作り始めたんだな。
「うん、それでもさ。妬くなり、怒ってくれる奴がいるなら、少しでも心配掛けないように。言葉を惜しんじゃいけないんだろうなあ、って。…次があるなら、そのときは、言わなきゃいけないことを、見失わないようにしたいよ」
伝えられずに、胸に残ったままの言葉。それが最近にもいくつかあるから、それを思い浮かべながら、今度こそはと自分に言い聞かせる。
哲平のほうはと言えば。妬く、って言葉をそのまま使われたのが意外だったのか、あー、とか妙な声出してる。
それから、気を取り直したように。
「まあ、がんばりや?」
「うん」
素直に頷いた俺を目を細めるようにして見つめて、それから、口元で笑った。
ちょうどそのとき、マスターからおかわりが差し出された。
なんだかいちいち、タイミングが絶妙だ。
「でも、恭ちゃんそんなん言ってても、いつか嫁はん持つんやろうなあ」
「…なんだ唐突に」
言葉を惜しむとか、ガラにもなく昔の話とかしたからか?
「ん?そやかて恭ちゃん、家族おるんきっと似合うし、なんか婿養子とかにも望まれそうやしなー」
「だから、なんだよそれ」
なんか、具体的なこと言ってくるなあ。自分自身としては、全く想像付かないんだけど。
「お義父さん、お義母さんとかできて、呼んだりして。……ああ、でも恭ちゃんが『真神』や無うなるんはイヤや」
妙に先走った哲平の言葉に、苦笑しかけて、止める。
ほんの一瞬だけ、哲平の横顔に違和感のようなものを感じた。自嘲のようにも見えたけれど、それが、どうして今。
確かめようとしたのを遮るように、冗談めいて哲平が続けた。
「わかってる。恭ちゃんが与作で木ぃ斬ってても、恭ちゃんは恭ちゃんやもん、ってなんか変やな」
「俺が与作なら、”恭ちゃん”は誰だよ」
磨き込まれたカウンターに肘付いて、哲平は頭を掻いた。
「…誰やろ、ホンマ。そやな、恭ちゃんがマタギやら木こりやらやったら恭ちゃん違うな。恭ちゃんは、真神恭介で探偵で、奈々ちゃんにとっては見習いなんが恭ちゃんや」
「見習いは余計だよ」
ついでにいえば、なんでそんな山男な職業選択の自由しかないのかとか、突っ込めるところは色々あるけど。わざわざ口に出すほどのことで無し。
「あー、まあええわ。ともかく恭ちゃんが本気で惚れて、ええ子やったら全力投球で祝福したる。俺かてそんなん大喜びやし。けど、できれば、覚えといてな?」
いつもの口調よりもより軽く、哲平はそう言いきって。
「ま、こんな話そん時になって考えることやし、やめよ」
そう、話題も打ち切った。
違和感を、追求しきれない自分がもどかしく感じることがある。
踏み込んじゃいけない場所があるだろうことを知ってる。自分を顧みないようなことになりそうだ、っていうのなら土足だろうがなんだろうが踏み込む。
でも、今は平時で。
いつか話せるようになることでも、今は話せないのだろうから、いつもいつもやり過ごす。
その引っかかりは、忘れていくようにみえて、眠る前とかにふと思い出す。
今日の横顔も、きっとまた思い出す。
突き詰めてしまおうとする思考を、無意識にでも逸らそうとしたのか。
ふっと、未来を思い浮かべようとした。
俺の隣に、誰かがいて、そして哲平の隣と、腕に抱え上げた小さな姿がある光景を。
一瞬だけ試みて、すぐに考えるのをやめた。お互い具体的な相手もいないのに思い浮かぶわけもないか。
ある光景は、手に取るように浮かんだんだ。
この街で、哲平の隣は俺で、俺の隣が哲平で。
ただ笑って、話している日常が、いつものように。
「考えてみたんだけど。…どうあれ、当分、俺の隣にはお前しかいないみたいだ」
考えても、考えても浮かぶのはそれだけ。
だから、そのまんまを伝えてみた。
哲平の表情が、ふと固まった。
「ホンマ恭ちゃん、そういうこと真顔で言うてくれるから好きやで?」
それから、そう言って破顔した。
そんなに恥ずかしいこと言ったかな?
言ったな。
言ったかも知れないけど、本当のことだし。
それに、それが何より、未来予想図としてぴったりと落ち着いたから。
きっと、まだそれでいいんだろうと納得して、そろそろ引き上げようと切り出した。
それ以上、考えることでもないだろうと思って。
単一の未来、ただそれしか思い浮かばなかった。
その光景があまりにも自然すぎたから。
それだけが自然だと思ったその不自然さには、全く気付かないまま。
fin.
難産の割に地味っ。
哲平視点の話も、同時アップするつもりだったんですが力尽く。がくり。
…すみません…(いろんな意味で)