携帯を、ぱたりと閉じる。
目を瞑る。
それでも、耳に残る悲鳴は追い出せなくて、天を仰いだ。
「待て、切んな、………恭介ぇっ!」
錆びた蛇口 --隠れ鬼・幕間
まずは、携帯の電話帳開いて哲平の番号を表示した。
眺めながら、公衆電話のキーで番号を辿っていく。
2,3回の呼び出し音のあと、繋がった。
『………誰、や。』
不機嫌と不審を前面に押し出した低音に、息を呑む。
そうだよな、今まで俺がかけていた電話は、着信時に俺の名前が表示されるんだから、あんなふざけた応答で遊べたんだ。
着信画面には、今は”公衆電話”とかしか表示されていないはず。
それでも、こんな誰何の仕方はしない。
どれだけ追いつめているのかを、見せつけられるように思い知りながら。
ひとこと、名前を呼んだ。
『…きょう、すけ?恭介、恭介やな!?今どこや、どこに居る!それより、怪我とか、なあ無事なんか?なんか、マズいことなってても、オレ迎えに…』
声の色ががらりと変わって、不審とかそんなのが心配とか喜びとか、そんなのに染め上げられる。
怒りなんて、微塵も感じられない。
…だからこそ、辛い。
辛い気持ちを押し込めて、できるだけ普通通りに声を出す。
生きているという事実と、明らかな危険が迫っている訳じゃないということを伝える。
それで、安堵してくれるわけはないって知っているけど。
『ならええ、ならええわ。な、恭介…ご隠居持ち直して礼言いたがっとる、大将これからの対策立てる言うてて、氷室のオッサン、大将が戻ってることにすら思いっきり昼行灯化しとる。ハマやったら隠れるとこぎょうさんあるから、せやから…!』
必死でまくし立てられる、続く言葉を遮った。
ただひとことで戻ることを、否定する。声に出して否定して、弱い自分を縛り付ける。
『戻らんて、…っ、恭介、阿呆、間違えんな!お前のせいやない、船のことも、今までのことも全部、何一つお前の所為やないんや!…お願いや、お願いやから消えんでくれ…っ』
間違えてるのかな、俺。
…そうかもしれないけれど、あのときの蒼と碧と紅とが、余りに鮮やかで。あのときや、あのときの銃の重みが未だに克明で。
耳を劈く銃声が、耳鳴りのように繰り返す。
だって、防げたはずのこと、防げなかったのは俺だろう?
防ぐ力がないのなら、防がなければならない事自体、せめて起きないようにしないといけない。
でもそんなこと、きっと優しいあの人達の誰ひとり、認めてくれるわけないから。
一部の本当だけを、呟いた。
嘘はひとつもないけれど、でも、…全部言うわけにもいかないから。
哲平、ごめん、…ごめんな。
唇を噛みしめて、目を閉じて、携帯から届く悲鳴に耳を傾ける。
『ふざけんな、恭介!アホか!?そんなん戻る方法なんて、歩いてタクシー捕まえて、遠羽行け言えばええやろ!?
…約束した、戻るて言うた!オレを、置いてくな。戻るんがどうしてもイヤやったら連れていけ!」
できるわけない。
あの場所には、お前の家族が居るじゃないか。
成美さんと、ご隠居と。
…俺の守りたい街で、守ってて。
謝罪と、身勝手過ぎる頼みを呟いて。
ごめん、哲平。
ごめん、哲平。
本当に、ごめん、ごめんな…、そして、頼むから。
頼むから…。
『待て、切んな、………恭介ぇっ!』
耳を塞ぐように、受話器を公衆電話のフックに掛けて。
目を閉じるように、名前が浮かぶ携帯を、畳んだ。
しばらく、片手に携帯、片手に受話器を握りしめたまま、俯いて立ちつくす。
どれだけそうしていたか分からないけど、外を通り過ぎるひとが目に入って、のろのろとBOXを出た。
この場所は、いくつかの場所を点々として、途中下車して立ち寄っただけ。
留まれる様な場所じゃなくて、団地といった感じの住宅街。
早く立ち去らなければいけないんだけど、疲れて。
目に入った小さな公園に立ち寄って、土埃のうっすら掛かったベンチを見付ける。
ゆっくりと腰を下ろした。
遠くで母親と小さい女の子がボールで遊んでる。
晴れ渡った綺麗な秋晴れで、あたたかい。
公園にいるのは3人だけ。
少しだけ力を抜いて見回した。
砂場とか、滑り台とか鉄棒とか。
公園の作りっていうのはどこだって一緒なのかな。
皺だらけの手に連れられてきた、懐かしい記憶が蘇る。
ボールが足下に転がってくる。
近くに駆け寄ってきた子が、俺に取ってくれと言いあぐねて立ちつくしている。
こんないい天気で平日の日中、公園で暗い顔して座ってる男って。
まあ、…怪しいよなあ。
自分を顧みて、自嘲で笑いがこみ上げる。
それから、それをなんとか微笑みに変えて、女の子のボールを拾ってあげる。
投げてあげると、上手にキャッチした。誇らしげに、両手で俺に差し出すようにボールを見せてから胸に抱える。
小さく拍手してみせると、満面の笑みを浮かべて胸に抱え込んだ。
抱え込む様子が、くまのともだちを大事にしているあの子を思い浮かべさせる。
朱原さんは、辛くないように伝えてくれたんだろうか。
…ここで、声なく謝る言葉に意味はない。
伝わらない言葉に意味はない。
自分を守るためだけに、謝り続けるのも止めないと。
勢いをつけて立ち上がり、ふと目にとまった水飲み場に立ち寄る。
蛇口っていうのかな、丸い穴の開いたその部分に赤さびが浮いている。今は、砂場で遊ぶのも不衛生だっていうらしいから、こういうのもあるだけで使われてないのかも知れないな。
昔、日が暮れるまで駆け回って。よじ登るように身を乗り出して、そこで水を飲むのが好きだった。
今、そこを見下ろすことが出来るようになって。
軋むような音を立てて、ハンドルを捻る。
飛び出す水に口を付けた。
こういうところのは、施設とかに設置してある様な飲料用に浄水された訳じゃないみたいだ。
塩素の味が先に立つ、ごく普通の水道水の味。
昔は美味しかったんだけどなあ、って飲むのを止める。
でも、水は止めない。
止めないまま、蛇口の下、排水溝のある水受けの中に携帯を浸した。
水に濡れれば、普通には使えなくなるけど、少し分かる人だったら復元はできるっていうな。
この携帯の中身に、そんな価値があるとは思えないけれど。
持ち主を失った携帯から始まった連鎖が、思い出されるから。
そして、これは、帰りたがる俺の逃げ道になるから。
手帳も、アドレス部分は破り捨ててしまわないとな、って思う。
それほど重要な情報があるわけではないけれど、切り捨てなければという強迫観念なのかもしれない。
所長のファイルについてのメモは、もしどこかに落ち着くことが出来たら手がかりになるから、できればなんとかして持っていたい。
周到すぎるほどに、自分の退路を潰していく。
きゅ、と水を止めて。
濡れた携帯を取る。
電源を入れてみると、何も表示されないのにディスプレイだけが弱々しく光る。
着信しているわけでもないのに、手の内で震え始める。
完全に壊れた、な。
勝手に入れられた着メロ、たくさんの他愛もないメール、受け取った声。
拳をぐっと、固める。
俺にはものを壊すという行為は、根本的に向いてないんだな。
まだ役目を果たせたそれに、無理矢理終わりを迎えさせたことがとても辛い。
それでも、やはりしておこうと思う。
俺は、まだ行く宛もなくて、だからこそ縋りたくなるかもしれないし。
最後に残った『約束』を破るつもりはないけれど、それでも。
考えたくないようなことで、これが俺の手から離れるかもしれないから。
開いたままの、折り畳みの携帯。結合部分は、構造的にとても弱い。
だから。
年季の入った、コンクリートの水飲み場。
今は、もう俺の腰までしかない。
携帯を開けたまま、それに向かって振り降ろす。
Fin.