断ち切れる前に、断ち切る前に。






オフライン --隠れ鬼・幕間





靴を脱ぐのももどかしく、駆け込んですぐに、まずパソコンを立ち上げる。
そしてクローゼットの上に仕舞ってあるボストンバッグを引っ張り出して、長袖半袖に換えのジーンズあたりを詰め込んだ。

振り返れば、パソコンの起動は終了している。
エクスプローラを立ち上げて、裏サイトのブックマークや調査関連の資料をまとめておいたフォルダをフラッシュメモリに落とす。
万が一のとき、一括で処理するために、森川の事件のあと整理してあった。…役立てたくはない準備だったけど、しておいてよかった。
平行してメーラーを立ち上げ、回線を繋ぐ。



残されている時間は、きっと無いから。



みんな、俺が会場に現れなかったことに気付く頃だ。
すぐに、アニバーサリー号で殺人事件が起こったことに気付く。

被害者が諏訪さんと知り、俺がその場にいないことに何を思うんだろう。

何を、思わせてしまうんだろう。





携帯の電源は切ってある。
今更電話に出ることなんて出来ないし、かといって鳴りっぱなしにするのは心が痛む。




掛かってきた電話に出ることなく切ってしまえば、俺が何を決めてしまったか気付かれてしまう。





本当は、あの船を出ることすら出来ないと思っていた。
船上という密室で、飛び込みでもしない限り、殺人者は船内に留まっている。
まともな警察なら、船にいる人間を足止めして、犯人逮捕を確実にするだろう。



まともな警察だと、信じていた。



物陰で息を殺しながら、逃げる方法に思いを巡らした。
普通の建物の二階以上の高さがあるそこから飛び降りれば、そのまま犯人が自暴自棄になって自殺、ということにもされかねない。

海に飛び込んだとしても、これだけの大型客船だ。
巻き起こる水流に飲まれて、泳ぎ切れるほど俺の泳ぎは達者な訳じゃない。

強行突破、できるほどに力があるわけでもない。
結局、隙を窺うっていう、運を天に任せるようなそれしか方法はないのかと、天を仰いだ。
それでもせめて手は打とうと、船内に繋がる階段を下った。


それらの心配は結局全て、杞憂に終わる。あまりにも、拍子抜けするほどに。




穏やかに談笑しながら、タラップを降りていくVIP。
その周囲には、それぞれの秘書やボディガード。
荷物持ちのような船員。
大きさの割に乗務員の少ない船内を物色して、船内のボーイの服、一応眼鏡も手に入れた。視界はかなり不自由になるけれど、それでも真っ直ぐ歩けない訳じゃない。
同じような格好の人間が、同じようにタラップを下る。


サイレンを鳴らさないで現れた覆面パトカー。散開する警察官。
船から下りる人々がまるで目に入っていないかのようだ。
ゆっくりと歩き去っていく人々はそれぞれに車を呼びよせている。

警察官は、計算され尽くした配置で警備について、関係者以外、誰一人として中には通さないだろう構えだ。
外に出ていく人々は、彼らの目には入っていない。



そもそも、そんな人間はここにはいないのだから。
コンティニューの理事ばかりが、この船にいるわけではないだろう。
この場所に、存在するはずのない人間もいるだろうから。

いるはずの人間しかいない、確かにそれは当然なんだけど。


森川が、あの事件を起こすことなくこの日を迎えていたら。
そうしたら、俺はここに辿り着いていない、…ありえないIFだけど。

氷室さんと配置が別れて、あいつはここの警備に当たっていたのかな。
あの融通の利かない正義感を曲げて、見えるものを見えなく出来ていたんだろうか。無理をして、辛くったって。
厳しい顔つきで周囲を見回す刑事達を横目に、そんなことを考えていた。



ゆっくりと怪しまれないように警備の網の穴を抜け、それから物陰で元の服に戻る。
逃げ出せたことを喜ぶべきなのに、胸にはただ、絶望感だけが残った。



だから、決めたんじゃないか。
心の中でそう呟いて、駆け出す。



いつもなら徒歩で動く距離だけれど、今日ばかりはすぐにタクシーを捕まえて、飛ばしてもらう。
その途中、やっと、サイレンを鳴らしてイベント会場に向かうパトカーとすれ違った。



とにかく、家でやることは済ませなければいけないから帰ってきたのだけど。
きっと、1時間もいられない。

タクシーには、少し離れた道路端で待機してくれるよう頼んである。

急がないと、早く。
哲平たちが、…それと好意的でないなにかが、来てしまう前に。





手はあわただしく動いているのに、思考は千々に乱れる。
それを引き戻したのは、回線が繋がった途端の軽やかな音。



…SAKU、こんな時間に?



片隅に浮き上がった小さなウィンドウ。




”やあ、帰ったんだね、KYO。どうだった?”

いつもどおりの、SAKUの口調。
まだ、ネットに情報は流れていないんだ。

なんと答えたらいいのか。
俺は結局最後で台無しにして、最大の手がかりにして黒幕の、…親しかった人を目の前で喪ったと、言えばいいのだろうか。



言えるわけもなく、ただ事務的にキーボードを叩く。




”SAKU、今から俺は消えるから、いつかの約束通り俺のことは切り捨てて。チャットツールはどうしたらいい?”


一瞬の間を置いて、浮かび上がってきた文字。



”インストールの時にできたフォルダに、アンインストール用のexeがある。それを動かして指示に従って。すぐ終わるから心配しないでいいよ。”



何を問いただすこともなく、的確な指示が戻って来る。
アンインストール用のツールも作ってあったのか。…確かに、そういう点は気を配らなきゃいけないんだろうけど。


”わかった。ありがとう”




そのフォルダを探しながら、返事する。
もう返事は、帰ってこないのかと思ったけど。

しばらく、間をおいて。




”元気でね、KYO。”





そのひとことが送られてきた直後、SAKUの表示がオフラインに変わる。
もう、きっと繋がることはない。

手を止めて、簡潔で優しいその言葉を、見つめた。
そして、そのままSAKUの指示した通りにexeを起動させた。
言うとおり、処理はすぐに終わった。

なにもかもが、あまりにあっけないようで。



それから、いくつかのメールを削除する。
キンタやももこから、心配してるらしいメールが届いているけれど、返事している暇はない。

そのことと、これから掛ける心配や迷惑に、ごめんなって詫びる。



パソコンの中で、どうしても組織から見られたくないものは消した。友人達の情報も、出来れば見られたくない。
調べは付いているだろうけど、住所やメールアドレスが残っているのは確かだから。
最後までやりきってくれるかはともかく、初期化も一応掛けておこうと思う。




やることは終わったかな、そう思ったけど。
動くたびに、胸元の封筒が自己主張し続ける。

今更、あいつにとって俺は、殴る価値もないだろう。
胸ポケットから、それを取り出して見つめる。
やはり、責められているように思えるのは、誰よりも自分自身が責めているからなんだろう。

そう思いながら、机の上の本に挟む。
警察が、見付けないわけないと知りながら。見付けることを前提にして。

…遠羽警察署全てがパーツなわけじゃない。氷室さんがいること自体がその証拠だけど。
でも、俺が今此処にいることがすなわち、パーツがかなり食い込んでいる証拠でもある。


警察の動きで、もしかしたら、パーツの意思を垣間見ることが出来るかもしれない。
俺が残したいくつかのことが、どれだけねじまげられていくだろう。


そう考えて、手紙を挟んだ本から手を離し、目を逸らす。
逃げかもしれない。

わかってる。






支度は出来た。30分近く掛かってる。
もう、さすがに出ないと。











財布と通帳と、手帳を最後に持って、玄関に向かう。

俺が関係者だと、絞り込まれるのはいつか分からない。それでも、下ろせる資金は全て下ろしておいた方がいい。
手数料とか割高だからいつもは避けているんだけど、この際コンビニで下ろしたほうが何かと好都合だろう。



携帯電話も持った。
戻らない部屋を、鍵も掛けずに飛び出す。

…充電器は、置いていく。
全ての線は、あと少しで断ち切るから、もういらない。











SAKU、そっちこそ元気で。
ありがとう、嬉しかった。君がいてくれて良かった。






打ち込めなかった返信を、心の中で繰り返す。















Fin.












…Rank_E、いろいろと成立させるには無理が多いですよ…。
特に、船脱出。

ただ、上空でヘリ爆破っていう目立つことがなければ、
息の掛かってないまっとうな警察の人はそばによる口実も、
多分諏訪さん殺害の情報すらしばらく与えられなかったのではないかと思います。

Rank-Cでそういう描写ありましたよね?
音を聞きつけて、って。

あと諏訪さんも、息の掛かったものしか、…と生きて船を下りてくれるとき言ってましたし。