つめたい涙





拘束された手首が、擦れて浅い傷を作る。
薄く薄くにじみ始める赤に生あたたかい舌が這い回る。

ざわりと悪寒が、本当は違うだろう感覚が背を走る。
「……っ…」
奥歯を噛み締めて、目を強く強く瞑って、声が漏れるのを防ぐ。
却って、自分の状況を悪化させることは知っていた。
それでも、これは意地だった。自分が、自分でありたかった。

その悪あがきが俺を抱くこの男をより楽しませるのは理解していても、諦めて溺れてしまうのは俺の矜持が許さなかった。

もう俺には、そのプライドしか残ってなかった。

そしてその悪あがきが楽しくて仕方ないのだろう。

「ああ、痛そうですね」
「……お前は、楽しそうだな」

せいぜい憎憎しく聞こえるように答えるが、それはただこいつの興を煽るだけだ。

「そのうち外して差し上げますよ」
「………」

焦点のぼやけた頭では、真意を測りかねた。
単純に解放してくれるような奴じゃない。
逃げられない場所に行くということか。

もう俺が、逃げることなどできなくなるということか。

腰とシーツの間に滑り込んだ腕が触れるのがわずらわしい。
明らかに感覚が狂わされている。

『大丈夫、壊れるようなものは使いませんよ。すぐに抜ける程度の軽微なものしか使いません。
 面白くないでしょう、あなたをそんなモノにしては価値がなくなるだけです』

いっそ何もわからなくなればいいのに。
…そうなったら全て終わるだろう。
俺は俺である限り足掻くだろうし、その無意味な足掻きはきっと威を喜ばせる。
願うことが支離滅裂だ。それでも、本当の望みはひとつ。

こいつの、この檻から逃れたい。

こいつの体温を背に感じると、案外に体温が高いのに気付く。
体温があるのが意外だった、当然のことなのだけれど。



俺はこいつの仕掛けたゲームに失敗して、価値の無いものとなったのだろう。
もう、自分についてほぼ全ては諦めていた。

そう、命以外は。
決して自分で自分の命を絶つことだけはしない。
どれほどの屈辱を受けたとしても。


そう、思った直後だったか。
圧し掛かる重みが俺から離れた。サイドテーブルに手を伸ばす気配がする。
かちり、と軽い音がした。
何をするつもりだと、顔をめぐらせると、毒蛇を思わせる笑顔があった。

再び背に感じる体温。
屈するものかとの意思とは裏腹に、体は強張る。

ひたりと、後ろに当てられる指。
その指は冷やりと何かに濡れて、背筋に震えが走る。


「怖いですか?」
くく、と笑う声が響く。

「ああ、怖いさ、悪いか」
当たり前だ。俺の嗜好は、多分普通だ。
だが、こいつはそれを捻じ曲げるだろう。

「いいえ、存外に素直で面白いですよ」


そうか、これは正解か。
こいつの予想に沿わないこと、思うが侭にならないこと。
それが生き延びる道だろう。

探り、掻い潜って抗って。

溺れたくない。
帰ってみせる。

俺が俺であれば。
折れなければ。

皆は、あいつは、また迎え入れてくれるんじゃないかって思うから。


その俺の足掻きを感じ取ったか。


「…っ、く…っ」
俺の中に入り込む指。
粘性の高い何かを伴ったそれは、ずるりと不快な感触を伴って奥に入り込んだ。

「……ひ…っぐ、……っっ」

耳元に吐息を感じる。長い髪が剥き出しの背を掠る。
何度か指を抜き差しの後、指が一度抜ける。

「…っ、ぁ?………っ!」
抜いたのは、ジェル上の何かをまた掬い取るため。
そして、それをまた、丹念に俺の中に塗りこむ。

指を増やして。



じわじわと熱に浮かされるように、正常な判断がつかなくなり、触れられることも無い、触れられない性器をこすり付けるように腰を動かし始めたころか。
あざけるようにしか聞こえない言葉には、条件反射的に言葉を返していたが、体はもう負けていた。

俺が我ながらそんな、無様な状態になったころだ。

「羨ましいですね、真神さん」
そう言って、俺の携帯を手に取り、お前に電話したのは。




『…恭介、恭介?』




その電話を、切れと叫んだ。
でも声にしてみたら、か細い懇願にしかならなかった。
何が起こっているか、お前は気付いただろうか。


「どうです、もう少し、聞きますか?懐かしい声でしょう?」
散々に俺を弄った指が引き抜かれて、安堵と、認めたくない物寂しさを感じた直後だった。
なんとか、携帯を弾こうと藻掻いたけれど、それは当然面白がらせるだけ。


そのまま、暴れる俺の肩をベッドに押し付けて、強く俺に押し入った。


「…うぁ、ぁ、あっ…は、やめ…っ」


携帯は、その瞬間も俺の顔のすぐそばに投げ出されていた。


気付かないわけはない。
こんなあからさまなこと、ただでさえ聡い奴なんだから。

軽蔑はしないだろう。
でも、怒るだろう。そして俺を哀れむかもしれない。



そしてお前の声を聞いて、必死で俺を呼んでいるお前の声を聞いて。

俺を抱く腕が、俺が受け入れざるを得なかった男が、お前だったらと願ったことを許してくれ。



「……哲平…ぃっ」


全てを忘れた一瞬、お前の名を呼んだ。
この男に抱かれたという、その現実から逃げるためにお前を利用した。





携帯越しのお前の声で、お前が最も憎んでいるだろうこいつを、お前と錯覚したことを、許してくれ。
親友だと笑う、その声を何よりひどく汚した気がした。


俺が威に抱かれたことに、お前は軽蔑は、しないだろう。
でも、お前に抱かれる妄想に摩り替えて耐えた、そう知れたらどうだ?

再び会えたとして、俺は、お前の友人として立つことができるのか?
笑うことが、できるのか?


そんな自分に絶望しながら、せめて見えないようにと。


シーツに顔を埋め、留め切れなかった涙を零した。













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