あの事件の当事者として、目の回るような日々が過ぎた。
いつの間にか報道はターゲットを変え、警察内部でも急激にあの事件に関する騒ぎは落ち着きつつある。
生き証人はもういないから、追い切れないというのがその理由だった。剣崎検事の自宅にも、落葉巡査の家にも、組織に繋がるものは何一つ無かった。
徹子おばさまや所長が現場保全にすぐに動いたのだから、隠滅したわけじゃなくて、初めから不用意に構成員の自宅に証拠を残すこと自体しないのだろう。
それにしたって、沈静化するのが早すぎるとは思うけれど、誰もそれを口にしない。鑑識の皆も、すっきりしていないみたいようだった。
「不自然だとは思うかもしれんが、騒ぐなよ」
でも、所長からそうきつく言い渡されたし、徹子おばさまにも同じようなことを言われた。
言われなくても、警察内部を探る力は私には無いし、何よりどうも気が抜けてしまったみたいで。
落葉さんのいとこさんが、辛そうな顔で私に頭を下げにきたりもした。
彼が謝ることなんて何一つ無いし、なにより双子のようにそっくりなその顔を、見るのがまだ辛かった。
そんな私を気遣ってか、あの所長がまとまった休みをくれたけれど、ゲームを始める気にも格闘技のビデオを見る気にもなれない。
なんとなくテレビを付けたら、あと一月で時効になる事件をワイドショーが取り上げていた。
既に、その当時の様子を留めない事件現場で刻々と近付く時効と遅々として進まない捜査が語られる。
『多くの証拠が残されながら、犯人が断定出来ないまま時効を迎えようとしています。被害者の声なき叫びは届くのでしょうか』
深刻そうな顔のレポーターはそう述べて、中継を終えた。
鑑識は、その声なき声に耳を傾ける仕事。
今までの仕事で、大事なことを聞き落としてはないと思う。…でも、それでも。
「そんなのお前に聞こえるわけねえだろうが。…なあ識子、面白くないぞ。チャンネル変えろや」
私の膝に駆け上がり、たすたすとリモコンを持った手を叩く。
別に見たい番組でも無し、好きなものを見せてやろうとは思ったんだけど。
「ねえ、鑑太。落葉さんは、何を伝えたかったのかな」
被害者で、もしかしたら加害者である人で。
古畑さんさえも眉をひそめた死体となったその人のおかげで、事件は一応の解決を見たんだけど。
「あ?何の話だよ。全然わかんねえぞ」
鑑太が、むっとした顔で私を睨んでくる。
うん、私もまだ考えがまとまっていないんだ。でも、なにかすっきりしないことが残ってて。
火刑法廷という組織がまだ生きているとか、そういう大きな心残りじゃなくて、なにかが噛み合わない感じが残っている。
あのときは、断片的に残された証拠をたぐり寄せて、真実を引き寄せるのに必死だった。
辿り着けたのは、本当に奇跡のようなものだと思ってる。
…あ。
「…どうして、真実に辿り着けたんだろう?」
「……なんだそりゃ」
そうだ、私はそれが腑に落ちなかったんだ。
「ねえ、鑑太。…なんで、落葉さんはハエトリ草を食べたんだと思う?」
ものすごく真剣に尋ねたのに、何を今更って本気で呆れた顔をしてくる。生意気だなあ。
「決まってんじゃねえか。剣崎が自分を殺した、って伝えたかったに決まってるだろ?」
うん、それはその通り。
だから、所長や徹子おばさまや私は、あの賭けに勝った。火刑法廷の犯罪が、闇に葬られずに済んだんだけど。
でも。
「誰に、どうして何のため?」
「…おい、バカになったのかよ。殺されて無念じゃない奴なんているかよ。侍くらいのもんだぜそんなの」
「だって、落葉さん火刑法廷の一員なんだよ?…きっと私の説得に失敗したらああなること、分かってたよね。…なにより、落葉さん映画館で犠牲が出ることを肯定してた」
「…あー、そういや、そうだっけな」
ちょっとだけ、何か変だと思ったらしい。鑑太も、つられるようにして言葉を濁す。
「私が悪あがきして、ハエトリ草に疑問持って検事の家に突撃なんて無謀なことしなきゃ、きっとねじ曲げられた検死結果のままだったと思うんだ」
「まあなー。なんか妙に面倒だったよな」
うん。
きっと落葉さんは、自分が失敗したときに及ぶ危険も、そうすることで守られてきた組織だって知ってたはずだ。
それが正義だと信じてたのに、どうしてそれを告発するような賭けに出たんだろう。
ハエトリ草を、追求しようとする人間が鑑識に関わることに、突き止めることに賭けたんだろう。
「…ひとつだけ、理由が付けられるのではないでしょうか」
さっきまで誰もいなかった場所に、うっすら気配が湧き出る。
猫がしゃべるとか人が消えたり出たりする不自然が日常になって久しい。
「…査之介」
査之介は、いつものように穏やかに笑っていた。穏やかに笑っているように見えて、少し悲しそうだった。
「どういうこと?」
考えようともせず、問い返した。
「わかりませんか?」
いさめるように問い返されたけど、わからないと頷いた。死者があまりに近すぎて、却って声が聞こえなくなったのかもしれない。
悔しいけれど、私は所長の言うようにまだまだ半人前だと認めてもいい。
落葉さんを信じていた。
彼があの組織に属していたことも、私にそこに入る資格があると誘ってきたことも、裏切られたように感じたのかもしれない。
「映画館に、どうして識子殿を誘ったんでしょうね?」
答えの出たはずの問いを、いまさら問いかけてくる。
その真意を測りかねて答えられないでいると、短気な声が思考をさえぎった。
「とうとうボケたのか、査之介!決まってるじゃねえか、識子が自分の仲間になるって勘違いしたからだろ?」
いらいらと、怒鳴る鑑太。査之介は、困ったように鑑太を見やる。それから、私をまっすぐに見た。
「識子殿も、そう思うのですか?」
頷こうと思った。でも、査之介の態度は、それを違うと訴えてくる。
私には、まだ見落としている何かがあるんだ。あの、映画館での奇妙なデートの日にまだ遺されたままの、声があるんだ。
今までの鑑識捜査で、私が声を拾えたのは落葉さんの助けがあったから。それなのに、落葉さん自身の声だけは拾えていないというのは悔しくて、もう一度あの日の記憶を呼び戻す。
辛くて、無意識に押しやろうとしていたあの日を思い出す。
『ここから出ていっちゃいけない!』
彼の叫び声が脳裏に蘇る。あの前、彼はなんと言っていた?
そうだ、これが本当にラストチャンスかもしれないのだ、とそう言っていた。
なんのチャンスかは自明だ。
私が生き続けるためのチャンス、それを彼は彼に許された方法で、私に手渡そうとしていた。
あの時、あの場所に来る前、彼はハエ取り草を剣崎検事の家で飲んできていた。
自分が殺された時のため、不自然な状況を作り出した。
…剣崎検事?
また、何か引っかかる。
そうだ、剣崎検事は、落葉さんより少し前に、私に電話をかけてきた。
帝国ホテルで食事、だったはず。
「そういえば、あのときの剣崎検事の誘いって…、私を組織に誘うため?」
考えをまとめるためにつぶやいた。誰に聞かせようとしたつもりじゃないのに、鑑太が怒鳴る。
「あいつがそんなやつだったら、オレは公園で黒コゲになってねえぞ!」
「あ、そうか」
剣崎は、私に爆弾入りのアタッシュケースを渡している。あの時点で、私を片付けるつもりだったはず。
それこそが、組織の意思だ。私は、あのとき、本当は死んでいた。
それが、そのあと覆るとも思えない。仲間に入れるに値すると考えられたのなら、あのとき殺されなくても済んだはずだ。
敵対する存在だと、はじめから思われてたんだし。
だとすると、帝都ホテルでの食事の誘いにほいほい乗っていたら、きっと私はその場にたどり着けもせずにきっと殺されてた。
誘いに失敗したから、今度は私と、割と親しい落葉さんに誘いなおさせた。
私が桐谷達彦の他殺の可能性に気付いたかもしれないことは、落葉さんを介して、いや介してなくても、帝都ホテルへの強引な捜査で気付かれたに違いない。私は、完全に火刑法廷のブラックリスト最重要人物だったんだから。
確証はない、それでも、それはひとつの可能性。
「私を助けるための、手段に過ぎなかったの?」
私には、本当はチャンスは与えられてなかった。もしかして、落葉さん自身、剣崎検事の家で、説き伏せたのかもしれない。
仲間に入れるにふさわしいのだと、チャンスを与えろと。
その、ひとつの可能性にたどり着いた問いに、査之介は答えた。
「組織のためだけに、識子殿を誘ったのなら、…そして、あなたの正義が、彼の信じた正義と違うと感づいていなければ、きっと…」
手がかりを、残そうとはしないだろう。
もしそんなことがあったとしたら、説得に失敗したときの『処理』だって、当然聞かされてきただろう。
入り口のハエ取り草、それを口に含むとき、何を思ったのか。
「火刑法廷がらみの事件で、そんなことを気に留めて、鑑識結果出すような調査官が乗り出してくるだなんて、組織の人間は予想しねえよな。…よっぽど無茶するやつを知らない限り」
いつの間にか黙って聞いていた鑑太も口を開いた。
「それじゃ、それじゃあ私が、火刑法廷の『正義』を拒んで、落葉さん殺害の濡れ衣を着せられるだろうってわかってたの?
それを良しとしないで、帝都ホテルのときみたいに強引に鑑識調査を、解剖結果を手に入れようとするだろうことも予想してたの?」
知らず、手が震えた。
死んでいたかもしれない恐怖ゆえじゃない。
彼は、私が着任してからの事件のいくつかを、彼は知っている。
正直手探りで、情熱だけが先走る私の捜査に、彼は何を見出したんだろう。
私の信じた『正義』の持つ力をどこかで信じていてくれたのか、彼自身の信じた正義に、実は疑義を抱いていたのか。
ただ、私、江波識子を生かしてくれようとしただけのか、分からない。
その前に、この希望交じりの推論が、正しかったかなんて私には確かめようもない。
でも、正しかったとしたら、彼は。私の能力を認めてくれていたのだ。
私が抱く正義を執行するための地位を、命を、守るための武器を残してくれたのだ。
もっとも、武器が残されていても、使う頭や腕がなければなんともならないから。
だから。
銃を構えて見張られていた、死地であったあの映画館を、…まず生きて逃れることを、祈ってくれていたのだ。
涙は出なかった。
…震えは、しばらく収まらなかった。
「…おせっかい、でしたか?」
やがて、震えも収まった。でも、虚脱したように座り込んでいた。
ふと、背に、小さな査之介の呟きが掛かった。
そんなこと言うなんて、意外だなって思いながら答えを返す。
「ううん、そんなことない。ありがとう査之介」
振り返ると、なんでか後ろを向いていて、それから査之介は不意を衝かれたかのような顔して私に向き直った。
それから、なんだかごまかすようにあわててた。
「いいえ、礼には及びませんよ。好きでやったことなのですから」
早口にそう言ってから、ふうっとため息をついてめがねを押し上げた。
そして、今度こそ他意なく穏やかに微笑む。
「ねえ、何か隠してる?」
絶対に何かあるんだろうとにらんでも、査之介は答えない。
こうなったら、きっと聞き出せないんじゃないかと思って、今度は鑑太を振り向いたけれど、何でか鑑太も明後日の方角を振り返ってる。
「ちょっと、鑑太!?」
私の声に、こっちをちらりと見て。
「オレはなーんも言わねえよ」
「何か知ってるのね?…鑑太ってば!」
そう言うと、二本足で立ち上がり、すたすた歩き去ろうとする。
「そんなんでごまかされないんだから!」
言い募ると、あきれたようにため息をついて。
「お前の周りには、おせっかいで心配性なやつが多いってことだよ」
そう言われても、なんのことだかさっぱりで。
それでも、査之介には分かったんだろう。
「あなたも含めてね、鑑太。…天神様との契約は、守らないんですか?」
「この場合必要ねえだろ」
意味の分からない会話に、堪忍袋の緒が切れる。
「ちょっと!何のことか教えなさいよ!」
怒鳴ると、査之介は申し訳なさそうに、鑑太はあきれたような表情を浮かべて幽霊と化け猫らしく消えてしまった。
残された私は、ふてくされたまま、二人が見ていた方角を見る。
誰もいない。当然声も聞こえない。
…私には。
あの日まで、事件に絡んだ場所でしか、顔を合わせたことがなかった。
思えば、あの日がはじめての、はずだった。
それでも、結局そこには硝煙のきな臭い匂いが漂った。私の去った後は、血の濃い匂いがしただろう。
今日の天気は良くて、世界はきっと平和だろうなんて思わせる。
そんな場所で、結局会うことはできなかったんだね。
「ありがとうね、落葉さん。…でもね、辛いかな?」
その言葉に、返事はない。
査之介も、鑑太も雲隠れしたままだ。
「何よ、あんたたち全然お節介なんかじゃないじゃない」
生者が遺した最期の声を少しは聞き取ることはできるようになった。
でも、もう誰もいないその場所に、いくら耳を傾けても、生者である私には、なんの声も聞こえない。
聞こえるのは、生きている人の声と、思い出に残された…。